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ニューポート(Newport)はアメリカ合衆国ロードアイランド州南東部、ニューポート郡に位置する港湾都市。州都プロビデンスの南約48km、ボストンの南約100kmに位置する。人口は26,475人(2000年国勢調査)。ロードアイランド州に深く切り込んだナラガンセット湾(Narragansett)に浮かぶ大きな島、アクイドネック島(Aquidneck、別名ロード・アイランド)の先端に位置し、湾の対岸とはニューポート・ブリッジという吊り橋を含む長大な海上道路で結ばれている。 港湾のほか保養地・別荘地としても名高く、19世紀末以降に建てられた豪邸が街の南の風光明媚な海岸に並ぶ。またアメリカ海軍大学(United States Naval War College)、海軍水中戦センター(Naval Undersea Warfare Center)、その他アメリカ海軍の訓練施設などが立地している。黒船を率いて日本や琉球などを訪れたマシュー・ペリーなど、海軍ゆかりの出身者も多い。 == 歴史 == ニューポートの町は1639年、ウィリアム・コディントン(William Coddington)、ジョン・クラーク(John Clarke)らによって建設され、1640年に小学校も建設された。彼らは反律法主義に共感を示したためボストンを去り、信教の自由が保障され多くの宗教的少数派を受け入れていたロードアイランド植民地に移住したという経緯がある。以後、クエーカー教徒、ユダヤ人らが多く移住し、アメリカ初のシナゴーグも建てられた北米を代表する商港として繁栄を始めた。1727年、ジェームズ・フランクリン(ベンジャミン・フランクリンの兄)はニューポートで印刷業を始め、1732年には最初の新聞『ロードアイランド・ガゼット』を発行した。彼の息子、ジェームズは週刊紙『マーキュリー』を1758年に発行している。アメリカのアンティーク家具の名品として高額で取引されているゴダード・アンド・タウンゼンド(Goddard and Townsend)の家具は、18世紀にニューポートのゴダード家とタウンゼンド家で作られたものである。 1687年にワシントン・スクエア東端に建てられた木造の役所は、1730年代後半からレンガ造りのジョージ朝様式建築に建て替えられ1741年に落成した。「オールド・コロニー・ハウス」(Old Colony House)と呼ばれ現存するこの建物はロードアイランド植民地の議事堂として機能し、アメリカ独立戦争前後には印紙法を巡る集会など植民地独立運動の舞台となり歴史上重要な役割を果たした。 イギリスの植民地支配に対する初期の抵抗が1769年ニューポートで起こっている。イギリス海軍のスループ帆船リバティ号が破壊され、積んでいたボートが街の広場ワシントン・スクエアに引きずり出された事件である。アメリカ独立戦争の間、イギリス軍は1776年から1778年までニューポートを占領し、街の商船業の大半を破壊した。 ニューポートは奴隷貿易(三角貿易)の上でも重要な港であった。18世紀にはニューヨークやボストン、フィラデルフィア、チャールストンなどと並ぶ北米の主要港に数えられた。またこの頃からニューポートは人気のある休暇先として、夏の避暑地として有名になる。ナサニエル・グリーン将軍ら、政財界や軍の有力者が邸宅を構え、19世紀後半には豪邸が町外れの海岸に並ぶようになった。 ジョン・F・ケネディ上院議員とジャクリーン・ブービェの結婚式は1953年9月12日、ニューポートのセント・メリー教会で行われている。アメリカ合衆国大統領となったケネディと、アイゼンハワーはニューポートで夏を過ごし、任期中はニューポートに「夏のホワイトハウス」を構えた。アイゼンハワーは「フォート・アダムス(Fort Adams)」に、ケネディは「ハマースミス・ファーム(Hammersmith Farm)」に滞在した。 市の歴史は海軍と切り離せない。ニューポートは南北戦争の間に、前線から近いアナポリスの海軍兵学校の臨時移転先となった。1971年まで、アメリカ大西洋艦隊の巡洋艦・駆逐艦からなる部隊がニューポートを母港としていたが、以後ニューポートを母港とする軍の艦艇は次第に減ってきている。アメリカ海軍大学と海軍教育訓練センター(NETC)、海軍水中戦センターは今でもニューポートにある。 人口推移は、1900年には22,204人、1910年には27,149人、1920年には30,255人、1940年には30,532人となっている。2000年の人口は26,475人である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニューポート (ロードアイランド州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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